日々の社会科:ウズベキスタンのナボイ劇場は日本兵あってこそ

日々の社会科

シルクロードとは、
中国と中東、ヨーロッパを結んだ
東西の交易路。

死の砂漠タクラマカンと
天山山脈を回り込み、
ウズベキスタンのサマルカンドで
人々は人心地つく。

ウズベキスタンは
トルコ系のウズベク人の国だけれど
支配者は次々変わってきた。

いくつものイスラム王朝が 
ウズベク人の国の上に立ち、
チンギス・ハンに壊滅させられるも、

その子孫が再び建て直す。

とりわけ、チンギス・ハンの子孫と
称するティムールは、
サマルカンドを「青の都」とも呼ばれる、

世界屈指の美しい街を作り上げた。
青いドームのモスク、
アラベスク模様に彩られた壁、

イスラム教スンナ派を
信仰する人は多いものの、
ゆるやかで飲酒したり
礼拝も毎日5回もしないよ、
だったり。

世界に2つしかない
二重内陸国
(国を2つ越えないと海に着かない、もうひとつはカリオストロの城のモデル、リヒテンシュタイン公国)のため、
海を見たことがある人は少ないという。

そんなウズベク人たちは、
海を超えてやってきた  
日本人が大好き。

彼らが日本に
親和性を持ってくれるのには
理由がある。

ウズベキスタンの首都タシケントには
ナボイ劇場、という
オペラハウスがある。

それを建てたのは、日本人。

日本の建設会社が受注したのではない。

時は1945年。

日本はポツダム宣言を受託し、敗戦が決定する。

主に満州にいた日本人は
ソ連に連行され、抑留される。

ウズベキスタンに送り込まれたのは、
建築を知っでいる、と
みなされた日本兵457人。

革命30周年までにオペラハウスを作り上げる、
その任務に就かされたのだ。

寒暖の差も激しい中央アジアで、
1日に黒パン300グラムとスープだけで、
捕虜となった彼らは、ひたすら働いた。

これを作ることが自分たちの  任務なら、
最高のものを作り上げようではないか。

朝は宿舎から列を作って 現場へ行き、
黙々と働いてまた列を作って宿舎に戻る。

最初は恐る恐る見ていたウズベク人たちは、
次第に彼らに心を寄せるように 
なっていった。

常に礼儀正しく仕事をこなす彼らを見て、

「日本人のようになりなさい」と
子どもに諭す人々もいたという。

ソ連兵が見ていても、見ていなくても、 
あの人たちは変わらない。
 
自分たちの境遇を嘆いているかもしれないが、
いまやるべきことをやりつくしている。

食事が足りないだろう、と
パンや果物をそっと宿舎の
柵から差し入れる人たちもいた。

翌日、そこを通ると 
柵の外に木で作られた  
おもちゃがそっと置かれていたという。

やがてソ連軍の収容所長すらも
彼らに敬意を表したと
言われている。 

そして、劇場ナボイは予定通り、革命30 周年の
1947 年に完成した。

ボリショイ劇場、キエフ劇場、
レニングラード劇場に続く
ソビエト屈指の劇場とされた。
 
日本人捕虜は、帰国の途に着いた。

このとき、200人の部隊の 
トップだった永田は、
書いた情報は持ち出せないため、
全員の名前と住所を
頭の中に叩き込み、

帰国してからも交流を続け、
ナボイにも再び訪れている。

このナボイ劇場、
1966年に直下型地震に襲われ、
周囲は240の政府施設、700の商店、
180の教育施設、250の工場、8万の家が
崩壊した中で、
何事もなかったように建っていて、
避難所にもなった。

この劇場のプレートには
かつて日本人捕虜が建てた、と
書かれていたが、

ソ連から独立後、大統領は、
ウズベキスタンは
日本と戦争をしていないし、
彼らを捕虜とも思っていない。

として、捕虜、という言葉を
書き換えた。

「1945年から46年にかけて
極東から強制移送された 
数百名の日本国民がこの建設に
参加し、完成に貢献した。」

そして、ウズベク人たちは、
この話を知っている中央アジアの人々は、
日本という国に深い親近感と
感謝の気持ちを持ってくれて   
いるのである。

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