日々の社会科:戦国時代の兵糧、腹が減っては戦はできぬ

日々の社会科

自分は、小さな農家の三男坊。
家にいたって食い扶持はない。

跡継ぎのいないどこかの
婿として拾ってもらうか、
商売でもするか。

いやしかし。

今は乱世、戦国の世。

サムライになって
一旗揚げてみせよう。

なんて勇ましいけれど、
要は兵として雇われれば
金がもらえたり
飯が食えるというわけ。

体力には自信はある。

強そうで、おいしいものを
たらふく食わせてくれる殿を
見つけて、
そこに奉公しようっていう寸法よ。

さて、殿様たちの陣営の
評判を聞いてみようか。

(厳密な年代には差がありますが、
ここはご容赦を!)

天皇がお二人いた南北朝あたりまでは
自分で米を用意しろっていう
とんでもないことだったようだが、

戦に次ぐ戦じゃ、そんなのは
無理難題に過ぎぬ。

国元からすべてをもっていければ
よいが、とてもそんなわけには
いかない。という状況なので、

道道で調達するしか
ないんだよな。

まあ戦だし、
乾いたコメになってしまうし、

芋の茎に味噌すりこんで
干したやつを腰にぶら下げて
湯に入れて味噌汁にしたり、
それも頭にかぶってるやつを
鍋にするとか、

おいしくはなさそうだが
まあないよりましか。

ただ、陣営によって
いろいろありそうだぞ。

毛利元就公は、
餅がお好みだそうだ。
 
餅袋と米袋と焼飯袋を
持たせてくれるらしい。

餅は腹持ちいいから
助かるなあ。

身分の低いものにも
気軽に声をかけて
酒食を振る舞って下さる方だそうだ。

越後の上杉謙信公は、
普段は一汁一菜の質素なものを
お召し上がりとのことだが、

出陣となると
それはそれは豪華なものを
みなに食べさせてくださる
そうだ。

アワビに新鮮な魚介類、
鴨にきすに、普段は
食べられないものばかり。

やる気になるよなあ。

秀吉公は、農民のことも
よくわかってらして、
うまいこと兵糧を調達される
とのこと。

とにかく、飢えたら終わりだ。

あの方の敵側にはなりたくないな。

播磨三木城や鳥取城の、
鳥肌も立つような兵糧攻めの
うわさは広まっている。

城にいたものは、
草木はもちろんのこと、
城の壁や引いては
先に死んだものの肉すら食らったとまで
言われている。

で、鳥取では、生き延びたものに
粥を食わせてやったら
ほとんどが死んでしまったとのこと。

今更毒を入れることもないだろう、と
思ったら、
飢餓状態のあと
いきなり食べ過ぎると
身体がびっくりしちまって
心の臓が止まっちまうらしい。

(リフィーディング症候群といいます)

ちょこっとしか食べられなかった
連中は大丈夫だったらしい。

もししばらく食べ物がないことに
なったあと、
急にたくさん食べちゃいけないんだな、
大事なこと聞いたよ。

それにしても、やはり
銭持ちのところに行くに
限るな。

毛利の殿様は石見の銀山があったし、
上杉様の越後上布は
都人に人気があったそうだし、
秀吉公は言わずもがな。

また、米も大事だが味噌も大事。
徳川様の豆味噌や
伊達様の赤味噌は
他のお大名の白い味噌が
腐っても全く問題なく
美味しく食べられるそうだし、
それはいいよなあ。

食べることに重きを置くなら、
伊賀や甲賀の忍びたちは
工夫したものを
持ち歩いているそうだ。

その名も兵糧丸(ひょうろうがん)。

うるち米にもち米、
高麗人参に氷砂糖、
ハトムギに芋の干したもの、
佳心(シナモン)
蓮の種子を干したもの、

これらを蒸して丸めて
干して持ち歩く。

飢渇丸(きかつがん)なるものは
そば粉に小麦粉、もち米に
甘草や山薬、高麗人参、
ハトムギに酒が
材料。

少しで腹は膨れるし
なかなかうまいらしい。  

生薬もしっかり入ってるから
疲労回復や腹の調子を整えたり
毒消しにも使えるらしい。

喉の乾きをいやす
水渇丸(すいかつがん)なるものは、
要は梅干しらしく、
酸っぱいから唾液が出て
喉の乾きをいやすもんらしい。

さすが忍びは合理的だ。

こう見ると
食うことばかり考えてるな。

サムライには向いていないのかも。

戦うよりは、
まずは兵糧係で雇ってもらおう。

料理もできるし、
平和な世になったら、
飯屋をやりたいなあ。

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