2023年大河ドラマは「どうする家康」です。
歴史の授業では、なんだか偉そうな感じのおじさんの絵と、260年間続く江戸幕府の創設者、戦国時代の最後の勝者といったことを知っていればいいという感じでしょうか。
実際どのような人物で、天下人になるまで何があったのか、知る機会はあまりないし、興味も持たれないかもしれません。
今回の大河ドラマで家康を身近に感じられることになるでしょう。
天下人徳川家康ですが、そこに至るまでは多難であり、またなにかあるとすぐ「もうダメだ、自害する」と泣きが入るヘタレだったようです。
戦国時代、下剋上も珍しくなかった時に弱虫の家康は家臣団に守られて、徳川幕府を開くということになるのです、そのあたり非常に興味深いです。
家康とはどのようなリーダーであったのか、ビジネスの参考にもなりそうです、一体どんな展開になるのやら
そんな家康が家臣団とともに乗り切っていく物語ですが、その中でもよりドラマになるであろう、徳川家康の人生3大ピンチと呼ばれる危機があります。
家康は天下人になるから大丈夫、と知っているのにハラハラドキドキの展開になりそう、楽しみです。
【 #どうする家康 クランクイン!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) June 6, 2022
我らが殿・徳川家康役 #松本潤 さん がクランクインしました!
松本さん
「丁寧に作品をつくっていきたい」
磯P
「どうする家康の世界へようこそ!」
▼クランクインメッセージはこちらhttps://t.co/LakPSSSGP6
我ながらよく生き延びたものよ。
どうする家康?三大ピンチ其の一【三河一向一揆】
どうする家康、家康の三大ピンチの最初は、家康21歳の時、
1563年から半年間領内で起こった三河一向一揆。
何が問題だったかというと、徳川家臣団が分裂したことです。
一向一揆とは、浄土真宗本願寺派の宗徒による一揆で、大名たちを大いに悩ませた大勢力です。
宗教的な結束が強かったのももとより、この頃の寺院は経済・教育・政治的に大きな力を持っていたこともあります。
加賀の国では、一向宗徒が大名を追い出し、100年にわたって自治が行われたほどです。
この頃、家康は松平家康として独立、西三河の支配権を拡大していました。
しかし、三河ではそれ以前から蓮如上人により一向宗が広がっていて、その前の領主との間で経済的基盤には手を出さないという不入権が認められていました。
商工業者も抱えていて、豊かな財源を持っていたのです。
一方の家康、領土も拡大し、家臣も増えてきて、兵糧米をはじめ、経済的な問題が表れ始めてきていたのです。
いわば、勢力争い。
徳川家臣団には一向宗徒も多くいて、家康と対立姿勢を取ったものも少なくありませんでした。
のちに家康の懐刀となる本多正信や徳川十六神将にはいる蜂屋貞次や渡辺守綱、家康の身代わりになって亡くなる夏目吉信も、家康に刃を向けた方です。
ただ、戦が長引くにつれ、一揆側にも綻びが表れ、また信仰と忠義のはざまで苦しむ家臣たちも少なくありませんでした。
半年の戦いののち、和議を結ぶことになります。
家康は多くの家臣や宗徒を赦免しますが、改宗を条件とします。
家康から赦された家臣たちは家康の下で結束して、強固な三河家臣団を結成することになるのです。
大変だったが、雨降って地固まるとはこのこと。
どうする家康?三大ピンチ其の二【三方ヶ原の戦い】
三河を傘下に収め、大名となる家康ですが、まだまだ危うい。
第二のピンチは三河一向一揆の10年後、武田信玄との戦いでボロ負けした三方ヶ原の戦いです。
家康は31歳。
三方ヶ原は現在の浜松市にあります。
もともと武田・織田は敵対してはいませんでしたが、信長が今川義元を倒して京に上ってから、関係は微妙になります。
織田信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍に据えるのですが、だんだん関係が悪化してきます。
足利義昭は武田信玄を頼り、武田VS織田・徳川という図式となるのです。
30000の武田軍に侵攻され、なすすべのない家康、信長は、周りの敵に阻まれて援軍を送れません。
そんな中、武田軍は家康の本丸浜松城を素通りします。
信玄の作戦だったのですが、まんまとはまって悔しい家康は追撃を決意します。
まわりの反対を押し切っての出陣でしたが、結果は惨敗、大切な家臣を何人も失うことになってしまいました。
家康の兜を被って目くらましとして敵陣に突っ込み、犠牲となった者もいます。
恐怖のあまり逃げ帰って、、、などいろいろ囁かれていますが、真相は分かっていません。
信玄はこのころ病気を抱えていてできるだけ早く京都にのぼろうとしていたから、無理に戦いをしようとはしなかった、とか、素通りすれば家康は激昂して追いかけてくるだろうからそれを見越していた、ともいわれています。
浜松城に逃げ帰った家康、追手が迫りますがあえて城門を開き火を焚いておくことで、敵は警戒して去るという作戦を取り、成功して命は助かったというぎりぎりの状態でした。
結局信玄は上洛途中で亡くなり、武田軍は甲斐に戻ることになります。
見せ場になりそうです。
そこをどう描くかが、大河ドラマの楽しみですね。
ほんとに大変な戦いであったのだ。
どうする家康?三大ピンチ其の三【神君伊賀越え】
家康という人は10年に一度大ピンチを迎えるようです。
最大のピンチといわれる「神君伊賀越え」は家康40歳の時に起こります。
徳川家康自身も最大の艱難はこれであったと打ち明けたとされています。
1582年、徳川家康は織田信長に招待されて安土城でもてなしを受け、堺を見物し、もう一度京都にいる信長にお礼のあいさつに向かおうとしていたところでした。
このとき、本能寺の変勃発、織田信長は明智光秀に殺されます。
河内にいた家康はその事実を知り、動揺して追い腹を切ると騒ぎます。
そこを本多忠勝を始めとする家臣たちに説得され、思いとどまりますが、お供の者はわずか34人。
明智光秀の配下に、落ち武者狩り、一揆のものたちなど、敵が辺り一面にいます。
逃れようにも絶体絶命ですが、このときまわりにいたのは徳川四天王をはじめとする精鋭たち、そして家康に協力してくれる者たちがいて、伊賀の山の中を抜けて、無事浜松に戻れたのです。
34人で撃退したのは200人以上ともいわれ、その危うさがよくわかります。
家康を助けた中には、忍者を束ねた服部半蔵や商人茶屋四郎次郎などがいて、その後も彼らは家康にとって重要な役割を果たしていくのです。
ヘタレの家康がどのようにこの難関を乗り切るのか、楽しみですね。
磯P撮影、伊賀越え道中。
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) June 2, 2022
・御斎峠(おとぎとうげ)から伊賀市方面の眺望
・伊賀越えの道(伊賀市内)#どうする家康 #伊賀越え pic.twitter.com/DxPmhvWKWT
どうする家康?家康の三大ピンチとは?まとめ
天下人、徳川幕府を築いた歴史に残る徳川家康ですが、その道のりは平たんではありませんでした。
中でも絶体絶命と思われた3つのピンチについて今回はまとめてみました。
- 家康第一のピンチは21歳の時、領内での三河一向一揆、家臣も多くが家康の敵に回った。
- 家康第二のピンチは31歳の時、三方ヶ原で武田信玄にボロ負けしたこと。
- 家康第三のピンチは40歳の時、本能寺の変の際に少人数で堺にいて、まわりの協力でかろうじて伊賀を超えて脱出し、浜松に戻れたこと。
天は私の味方かもしれぬ
コメント