永谷園と山本山、お茶を通した感動のエピソード、300年のお付き合い!

こんなことあんなこと

ほっと一息、美味しい緑茶を頂くと、気持ちも落ち着き、体の中もスッキリし、ああいいなあと、ふと誰かに感謝したくなることがあります。

日本茶、と分類される美しい緑色の香り高いお茶を誰もが飲めるようになったのは、実は江戸時代、ある茶農家さんのたゆまぬ探求心と、冒険に出る勇気、そしてそれを受け止められる器の人物、彼らがいてくれたからこそ、現代もお茶を楽しめるのです。

そこにはお茶漬けの永谷園と、海苔とお茶の「山本山」の、300年にわたる深い関係があるのです。

永谷さんがいなかったら、美味しい緑茶はなく、山本さんがいなかったら、その美味しい緑茶も広まることはなかったのです。

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お茶漬けもお茶も海苔も大好きだけど、どういうこと?

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お茶の歴史と永谷さんの功績

お茶は、中国から奈良時代に留学僧などから、日本に伝わったとされます。

茶を広めたのは、鎌倉時代に禅を伝えた臨済宗の僧、栄西(えいさい)で、鎌倉幕府の将軍に薬として茶を献上しています。

戦国時代には、千利休が茶道を大成して武将の間に茶が広まりますが、彼らがたしなんだ「抹茶」は、上流階級のものであり、作ることを許されているのは限られたものだけでした。

勝手に抹茶を作ることはできなかったのです。

庶民の飲む茶は、むしろで日干しした粗末なもので、美味しいとは言えない代物でした。

京都、宇治の茶農家永谷宗円は、法に触れずに美味しい茶を作り出せないものかと考えます。

15年にもわたる試行錯誤の末、とうとう彼は美しい水色(すいしょく)と甘味うまみのある茶を作り出すことに成功します。

彼の生み出した手法は、湯で茶葉を蒸した後に新芽のみの茶葉を手もみして乾燥させることにより、美しい緑色と適度の渋み苦味に甘味うまみを実現した、画期的なものでした。

これが日本煎茶の基礎である「宇治製法」です。

緑茶の製法を確立した宗円さんは、それをひろめようとします。

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宗円さんが茶葉を美味しく飲める方法を考え出してくれたのね。

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永谷さんと山本さん、運命の出会い

画期的な緑茶、「青製煎茶」を編み出した宗円さん、広めようとしましたが、京都ではまったく相手にされませんでした。

そこで、江戸に出ることを決心します。

江戸に出て、いくつもの店に足を運びますが、今まで見たこともない茶葉を扱ってくれる店も、話を聞いてくれる店もありませんでした。

次の店で最後にしよう。

この店が駄目だったら、あきらめて宇治に戻ろう。

いつかきっとわかってもらえるだろう。

最後に訪れたのは、山本山。

店主は4代目山本嘉兵衛、1738年のことでした。

話を聞きましょう、と宗円を招き入れ、彼の持ってきた茶葉を入れさせて飲んだ彼は、その美しさと美味しさに驚愕しました。

即座に価値を認め、小判3枚で買い取り、翌年の購入もその場で約束しました。

嘉兵衛はこの茶葉に「天下一」と名付けて売り出すと、江戸をはじめ全国で圧倒的な人気を博して、彼は大きな評判と莫大な利益を得ることができました。

天下一、は今でも山本山で購入することができます。

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なんか、感動しちゃった!

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永谷さんと山本さん、そしてその後の両家

永谷家と山本家の付き合いは続き、明治8年まで山本家は永谷家に、毎年小判25両を届けたということです。

宗円は茶の製法を惜しげもなく人々に伝え、宇治製法の青茶は全国に広まります。

自身も財をなした宗円は、その利益を地域の湿田の改良工事に使います。

98歳という長寿を全うした宗円は現在「茶宗明神社」に祀られています。

明治に入ると生糸とともに茶は日本の主力輸出品となっていきます。

そして、宗円から数えて10代目の子孫が創業したのが、お茶漬けの永谷園です。

山本屋は山本山となり、お茶と海苔を扱うようになります。

6代目は玉露を考案して日本の茶文化をさらに豊かにしました。

震災や空襲にあいながら、現在も日本橋の地で日本の味を伝え続けてくれています。

いまでもすぐそこに江戸は息づいているのです。

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お茶づけと海苔とお茶も、全部いただこう。

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