日々の社会科:石田三成を支えた島左近と大谷吉継

日々の社会科

【関ヶ原、三成を支えた二人】

慶長5年(1600年)9月15日、
天下分け目の関ヶ原の決戦が
行われ、
長引くと思われたこの合戦は
わずか6時間で
勝敗が決し、
西軍を率いた石田三成は
敗れ去った…。

歴史上の人物、とりわけ
敗軍の将の評価は
良好なものではありませんか、

石田三成を最期まで
支えた二人を惜しむ声は
敵味方関わらずあり、
彼らのような同志を持った
三成という人物の魅力も
感じ取れるのです。

ひとりは、三成の家臣、
島左近

三成より20歳ほど年長であり、
大和の国生まれ。

信長、秀吉に仕えて
大和の国を平定した
筒井順慶のもとで
活躍したものの、 

順慶が36歳で没したあと、
後を継いだ筒井定次との
折り合いが悪く、
筒井家を去ります。

その後は他の武将に仕えたとか
ぶらぶらしていたなど諸説ありますが、

文武に優れた島左近には
多くの武将から声がかかって
いたようです。

三成もそのひとりで
左近に惚れ込み、
「自分の所領の半分、
2万石の知行で来てくれないか」
との破格の待遇で
左近を召し抱えたとも言われています。

半分出しちゃったら
主従逆転ではなどの疑惑も
ありますが、

三成がその後秀吉から
領地を加増された時に
左近の所領も増やそうとしたところ、

「このままでけっこうでございます」と
答えたということから、
主従の絆は深かったと
見られています。

「三成に過ぎたるものが
二つあり。
島の左近に佐和山城」とは

と、当時言われたほどに、
左近の評判は高く、
琵琶湖畔の佐和山城築城も
左近の貢献が大きかったと言われています。

秀吉亡き後、
勢力争いが不安定になり、
家康の力量を
高く評価していた左近は、
三成に何度も
家康暗殺を提言しますが、

そんな卑怯な真似はせぬ、と
三成はそれを却下。

左近は三成を歯がゆく思いつつも
関ヶ原西軍の地固めに
力を尽くします。

しかし、数は多いものの
士気の上がらない西軍、

関ヶ原の戦いの火蓋が
切って落とされた時、
先に立って東軍に襲い掛かり、
西軍の士気を大いに上げたのは
左近でした。

しかし間もなく黒田長政
(黒田官兵衛の息子、家康についた)の
軍に撃たれ、
撤退を余儀なくされます。

最期は黒田軍に突撃して
戦死したとされますが、
遺体が未だに見つかっていないため
生存説が囁かれています。

もうひとりは、
三成の盟友、大谷吉継

秀吉の正室、 
ねねの侍女を母とし、 
三成よりひとつ歳上。

秀吉の小姓として仕え、
武功を挙げ、知略もあるとして
秀吉から厚く信頼を得ます。

「そなたに100万の軍勢を与えて
指揮させてみたい」と
言われるほど。

三成とは朝鮮出兵をともにし、
秀吉につかえる文治派として
友情を深めます。

そんな吉継でしたが、
ハンセン病に侵され、
顔形が崩れたために
白い布で覆うようになります。

ある時茶会の濃茶点前で
(濃茶は点てられたものをまわし飲み)
吉継の飲んだ茶碗は
みな口をつけるふりだけ
していたものの、
三成だけは意に介さず
飲みきったことから、

三成と生死をともにしよう、と
決めたとも。

吉継は、秀吉亡き後は
家康に近づき、
上杉討伐にも参戦します。

その時、家康を討ちたい、と
三成からの使者が来て、
吉継は反対します。

そなたは頭は良いが、
人望はない。

戦の時、人はその大将の人望と
能力で動く。
そなたは家康に遠く及ばない。

それでも、吉継は三成に味方します。
三成に勝ち目はないだろう、と
知りながら。

戦いが始まり、小早川秀秋を
怪しく思っていた吉継は
寝返りに対応するものの、
それ以上の寝返りの多さに
軍は壊滅、

醜い我が首を深く埋めよ、と
家臣に伝えて自害した、
と言われ、
吉継の遺体も見つかっていません。

もっとも信頼する身近な
ふたりから、
あなたは家康に及ばない、
家康を密かに殺せ、
家康に味方せよ、
そう言われても自らの信念を
貫いた三成。

三成の行く末を知りながら、
自らの命を捧げた左近と吉継。

彼らが戦いの道を選ばず、
家康に臣従していたら、
江戸幕府はもっと万全なものに
なっていたかもしれません。

吉継の遺した言葉は、

「大将の要害は徳にあり。
徳あるところ、天下これに帰す。」

「金のみで人は動くにあらず。」

辞世の句は、
「契あらば六つのちまたに待てしばし
おくれ先立つ事はありとも」

(約束どおり、来世の入口でしばらく
待っていてくれ、
遅れたり、先に死ぬかもしれないけれど)

これはともに西軍で命を散らした
平塚為広の、

「名のために棄つる命は惜しからじ
終にとまらぬ浮世と思えば」

(主君のために命を棄てるのは
惜しくない、
永遠に生きられるわけでも
ないのだから)

辞世の句への返歌と
されています。

自分がどう生きるか、
自ら決めて散っていった 
左近と吉継の在り方に、

思いを馳せる人々は
昔も今も絶えないのでしょう。

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