日々の社会科:エリザベス・サンダース・ホームと「澤田美喜」

日々の社会科



戦いは終わった、万歳。
明日からは楽しく暮らせるね!

なんて、戦争に負けた国には
そんな現実はやってこない。

むしろ、ここからが新たな戦い、
地獄が始まったという人々も
少なくない。

シベリアに連れて行かれた人々、
それを知らずに待つ家族、

大陸から命からがら
逃げてきた人々、

生きてはいたものの、
心にも身体にも大きな傷を
負って戻ってきた軍人たち、

核爆弾で永遠に治らない病や怪我を
抱えた人々、

疎開先から戻ってみたら、
家族も家も失っていた子どもたち、

夫に死なれ、子どもを抱え
生き延びなければいけなかった
女性たち、

占領してきた進駐軍に
家も財産も全て奪われた人々…。

進駐軍は人々が築き上げてきた
文化を、建物を、繋がりを、
踏みにじり、
女性たちをも蹂躙した。

生活のために彼らに
身を売ったり、
あるいは襲われたりして
(恋愛ももちろんあった)
望まない妊娠をして、
生まれた子どもたち、
混血のGIベビーと呼ばれた彼らは
5000人を超えるという。

そのうち、2000人を
引き取って育てた
ひとりの女性がいた。

澤田美喜。

1901年、三菱財閥を作り上げた
岩崎彌太郎の直系の孫娘として
生まれる。

3人の兄のあとに生まれた待望の
女の子であったが、
パワフルで、男だったらよかったのに、と
母を嘆かせたという。

ただ、祖母や父は美喜のそのような
気質を愛し、かわいがった。

岩崎家は大変な富豪であり、
屋敷には50人もの使用人も
抱えていたが、
生活は常に質素であり、
祖母も美喜に

「どんなに金持ちになっても
働くこと、人様の役に立つことを
忘れてはいけない」

と、言い聞かせていたという。

美喜はお茶の水女学校に入るが、
キリスト教に関心を持ったことから
中退させられ、
津田梅子が家庭教師となり、
英語を学ぶことになる。

厳格な仏教徒であった岩崎家で
美喜はクリスチャンになることを
望み、
21歳のときに外交官で
クリスチャンである、
澤田廉三と結婚する。

アルゼンチン、北京、ロンドン、
パリ、ニューヨークと
夫の赴任とともに渡り歩き、
語学力を磨き、
その社交性を発揮して
多くの人脈を築くことになる。

パリではマリー・ローランサンに
絵を習い、
ニューヨークでは「大地」の著者
パール・バックとも親交を
深める。

4人の子にも恵まれた。

彼女に衝撃を与えたのは、
ロンドンで訪れた孤児院、
ドクター・バーナードス・ホーム。

笑顔の子どもたち、
きれいな宿舎に礼拝堂。
小学校から高校まであり、
職業訓練もできる。

ここに感動して毎週のように
ボランティアとして
訪れるようになる。

しかし、ニューヨークから帰国した年に
盧溝橋事件が勃発、
日本は戦争に巻き込まれていく。

美喜の3人の息子も
徴兵され、
三男の晃が戦死した。

やがて戦争が終わり、
進駐軍がやってきた。

米兵と日本人女性の間に
混血児が生まれ、
望まれなかった彼らの遺体を
いくつも目にすることとなる。

昭和21年秋、
美喜の人生を変える出来事が
起こる。

東海道線に乗っていた
美喜の前に、網棚の荷物が
落ちてきた。

ヤミ物資を取り締まっていた警官が
やってきて、その包を開けろという。

そこには、新聞紙にくるまれた
黒い肌の嬰児の遺体があった。

美喜を疑う警官に
「私がお産をしたばかりの身体かどうか
調べてみなさい」
と啖呵を切って服を脱ごうとした
美喜だったが、

包をおいたのは別の若い女性だったと
証言する乗客がいて、
美喜の疑いは晴れた。

この時、

「一瞬でも、私はこの子の母とされた。
なぜ、日本中のこうした子どものための
母となってやれないのか」

という思いが天啓のように
降ってきた。

そうだ、これこそが私の仕事なのだ。

ロンドンで見た孤児院のあるべき姿、
捨てられた嬰児たちの亡骸、

美喜の中でひとつの理想が
形となって現れた。

彼女は、夫の前に手をついて、
これから混血の子どもたちを救うことが
私のするべきこと、
 
しかし、仕事と家庭を両立することは
到底出来ないでしょう、

私を家庭から開放してください、と
涙ながらに訴えた。

自身もクリスチャンである蓮三は
美喜の志に賛同し、
彼女を自由にした。

そして、美喜は自ら、
苦難の道を歩き始めたのである。

46歳だった。


「神は私に不幸な混血児を
救う任務を与え給うた。」

美喜はそう確信し、
夫の側を離れ、
実家の父の元を訪ねた。

自分の計画を打ち明け、
岩崎家の大磯にある別荘を
使わせてくれ、と頼み込んだ。

(大磯は神奈川県、横浜と熱海の
間くらいにあり、
富豪や元勲の別荘地であった)

父、久弥は哀れな混血児の話を聞き、
目にいっぱいの涙をためて言った。

「お前の仕事を祝福して
その家をやりたい。しかしながら
あの家は進駐軍司令部の
ものとなっているのだ。」

美喜は進駐軍に掛け合い、
その家を買い戻すことにした。

持っているものを全て売払い、
高利貸しから借金をし、
5000通以上の手紙を書いて
内外の友人知人たちに
献金を募った。

その間にも、あの別荘で
混血児の子どもを引き取ってくれる、と
噂が広まり、
子どもが次々置き捨てられる
ようになった。

借金も返さねばならない、
子どもを育てるための 
オムツやミルク、必要なものは
どんどん増えてくる。

混血児を育てている、と
いうことで
まわりからは軽蔑され
罵倒され嘲笑された。

米軍の恥だとして
進駐軍からの嫌がらせもあった。

三菱の令嬢、外交官夫人の  
道楽だと冷たい目で見られた。

それでも美喜はすべての孤児を
受け入れ、
彼らを生かすために 
全力を尽くした。

そんな時、英国大使館から
呼び出された。

日本に40年間住んでいた女性が
亡くなり、
彼女は細々と貯めていたお金を
社会福祉事業に
使って欲しい、と遺言を遺したのだ。

このお金をどうぞ、と 
届き、美喜は彼女の名を取って
「エリザベス・サンダース・ホーム」と
孤児院に名をつけた。

美喜の事業は
徐々に知られるようになり、
寄付が集まってきたり、
訪問する者も現れるようになってきた。

そして美喜は子どもたちの
父親がいるアメリカを
訪問した。

アメリカでは教会や旧知の人々が
彼女を迎えてくれ、
講演をしたり、
ラジオやテレビに出たりして
理解を広めていった。

美喜はここで、新たな活動を始めた。
それは、子どもを欲しいと願う人達に
孤児たちが引き取られるような
養子縁組制度を
作ることであった。

国連に出向いて交渉し、
最高責任者にも会えて
養子縁組制度の許可を
取ることができ、
その後1000人に近い孤児たちが
養子として
アメリカの家庭に
引き取られることになる。

しかし一方で、
国内では混血児に向けられる目は
まだまだ厳しかった。

道を歩くだけで笑われ、からかわれ、
注目され、写真を撮られ、
学校に行けば凄惨ないじめが
待っていた。

美喜は彼らのために
施設内に学校も作った。

聖ステパノ学園。
ステパノ、とは美喜の戦死した 
息子、晃の洗礼名。

そして社会に適合できるように
職業訓練も施した。

それでも、美喜が警察に
身柄を引き取りにいったことは
数え切れない。

人種差別のない、新天地に
いかせるしかない。

美喜は、ブラジルに土地を買い、
小岩井農業や三菱重工で
研修を積ませて、送り込んだ。

(この事業そのものは16年ほどで
終わりを告げた)

子どもたちを優しく包み込むのは
保母たちの仕事として
美喜は社会に立ち向かい、
子どもたちには
厳しい「ママちゃま」として
存在した。

決して聖人君子ではなく、
感情の起伏も烈しく、
子どもたちを本気で叱り、
手を上げることもあったという。

それでも、美喜に厳しく
叱られたものほど彼女を慕った。

「ママちゃまは、本気で自分を
叱ってくれた。
自分にきちんと向かいあってくれた。」

と、彼らは言う。

社会から離脱しそうになった
卒業生の相談相手になり、
講演の旅に出かけ、
養子となった子どもたちの
様子を見るためにアメリカを訪ねた。

美喜78歳の時、講演のために
スペインへ赴き、
地中海のマジョルカ島で
心臓麻痺で世を去った。

現在、エリザベス・サンダース・ホームは
児童養護施設として
今も子どもたちを育てている。

子どもたちがここに来るのは、
彼らのせいではない。
いつだって、それは大人の理由なのだ。

子どもの側に寄り添う日々の
積み重ねが、彼らの未来を
作っていく。

また、敬虔なクリスチャンであった
美喜は、九州の隠れキリシタンに
受け継がれるものを集め、
それらはホームの敷地内に建つ
澤田美喜記念館に納められている。

美喜のことば、

「人生は、自分の手で
どんな色にも塗り替えられる」

これを座右の銘とする人も
少なくないという。

美喜が救った2000を超える
それぞれの人生は、
どんな色に
塗られていったのだろうか。

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