鎌倉殿の13人、前半のクライマックスであろうと思われるのは、源頼朝の死。
征夷大将軍に任ぜられてから7年後に亡くなります。
その死因は今でもはっきりとはわかっていません。
史料から様々な説が提唱されています。
鎌倉殿の13人!源頼朝の死因は?脚本の三谷幸喜氏の言葉より
頼朝の死について、脚本の三谷幸喜さんはこう語っています。
この時代を書いた大河ドラマといえば、石坂浩二さんが源頼朝、岩下志麻さんが北条政子を演じた昭和54年の「草燃える」。僕が観たのは高校生のときで、当時は脚本家になろうなんて思ってもいなかったし、ましてや大河の脚本を書くなんて想像もしていなかった。それなのに頼朝が死んだ回を観たときに「自分だったらこう描きたい」と思ったんです。その願いが42年ぶりに叶うわけで。楽しみでなりません。
宝島社発行「鎌倉殿の13人」三谷幸喜氏のインタビューより
三谷幸喜氏が42年前に描いたシーンが現れました。
頼朝は意識を失って落馬したのですが、その原因を後鳥羽上皇が語るという形にしていました。
「飲水の病」、すなわち糖尿病です。
ただ、歴史的には様々な説がありますので、検証してみたいと思います。

鎌倉殿の死は早すぎた…。
鎌倉殿の13人!源頼朝の死因は落馬説

鎌倉幕府の記録、「吾妻鏡」には源頼朝の死に関する部分が欠落しています。
頼朝が亡くなったと思われるのは1199年1月13日と、ほぼ断定されています。
その前の3年間と翌月、息子の頼家が後を継いだ2月までの記載がないのです。
頼朝の死について出てくるのは3代実朝の時になって、13年前に落馬して亡くなったと記載されています。
1198年12月2日、重臣の稲毛重成が相模川にかけた橋の落成供養に行き、帰りに落馬して一月後に亡くなったというものです。
落馬、といっても武士である頼朝が簡単に落馬するとも思えず、しかもまだ53歳。
なにかしらの状況で落馬してその怪我がもとで亡くなったのでしょうか。
怪我のあとに破傷風になった、馬ごと相模川に転落して大量の水を飲んだのが原因だ、など様々な解釈が飛び交っています。
脳卒中を起こして落馬したのでは、という説もあります。
三谷幸喜氏が心を動かされた「草燃える」の頼朝の死は脳卒中で落馬説を採用したものであったと思われます。
説としては落馬説がもっとも有力です。

頼朝殿が落馬したなんて信じられないが…。
鎌倉殿の13人!源頼朝死因は糖尿病説

吾妻鏡以外にも、頼朝の死に触れているものがあります。
近衛家実が書いた「猪隈関白記」によると、頼朝は飲水の病にかかっていたとのこと。
飲水の病とは糖尿病のことで、平安時代は藤原道長をはじめ、多くの貴族が糖尿病に苦しめられていました。
糖尿病は水を飲みたがる症状が出るため、「飲水の病」とされてきました。
糖尿病から死に至る原因としては癌や感染症が1位2位を占めますが、血管障害が3位です。
血管障害とは脳梗塞、心筋梗塞などを含みます。
つまり、飲水病=糖尿病が、脳梗塞(脳梗塞は脳卒中のひとつ)を起こして落馬した、と関連付けることもできますね。

食べ物が原因の病ということかな?
鎌倉殿の13人!頼朝死因は誤嚥性肺炎説

落馬説のひとつに含まれるかもしれませんが、脳卒中、落馬後の怪我(破傷風とも)などの説の中にこのようなものもあります。
水を飲んで死んだ、それは誤嚥性肺炎ではないかというもの。
落馬後の療養中に水を誤嚥し、肺炎から敗血症をきたして亡くなったとも考えられるとのこと。
落馬、だけでも様々な要因が考えられるのですね。

水を飲んで亡くなったという解釈にもいろいろあるのだな。
鎌倉殿の13人!源頼朝死因は祟りだ説

いやいや、落馬したのは病気じゃない、祟りだ。
日本の神として祀られている人々は、祟りを恐れて祀られている場合が多くあります。
古くは天照大御神に国を譲った大国主命、天満宮の菅原道真…。
この当時祟りを怖れるのは至って普通のことであったはずです。
そして、権力を握るために頼朝が死に追いやった人々は数多いことでした。
相模川に向かったこの日、「保暦間記」や「北条九代記」などによると、弟の義経や叔父の行家の亡霊が現れ、さらに壇之浦に沈んだ安徳天皇の亡霊も現れたとされています。
頼朝が義経を葬り去ったことについては、平静であったとは考えにくいものがあります。
実際、義経の首塚と呼ばれる場所に(頼朝に届けられた首は義経本人のものではなく、金色の亀が藤沢に運び込んだとか)祠を立ててまつったそうです。
その亡霊を見て落馬した…。

頼朝殿のなされたことからすると、あり得なくないんだよな。
鎌倉殿の13人!源頼朝死因は暗殺説

最後は、暗殺説です。
謀略や裏切りが渦巻くこの時代、何があっても不思議ではありません。
吾妻鏡は、北条家にとって都合の悪いことは書いてありません。
ゆえに、頼朝の死についての記述がないに等しいということについて、疑念が持たれています。
頼朝が征夷大将軍になって幕府が盤石になりつつあるころ、娘を宮中の後鳥羽上皇に差し出そうとしたので、御家人たちの失望を買ったともいわれています。
娘を天皇の后にする、というのは藤原氏、そして平氏と同じやり方です。
もっとも差し出そうとした娘たちは二人とも早くに亡くなってしまったので、その願いはかないませんでしたが。
そういった状況であれば、徐々に御家人たちとうまくいかなくなって…という展開もあり得なくはありませんね。
歌舞伎においては、女装して浮気相手の家に侵入しようとしたところ、御家人に切り殺されてしまい、あまりにも情けない死に方なので落馬ということにした、という話もあります。

北条がそんなことするわけないだろう。
鎌倉殿の13人!源頼朝の死因は何?まとめ
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) June 26, 2022
建暦2年(1212)2月28日条
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相模川の橋の修理について評議があり、かつて橋が新造されたときの事情が話題になりました。去る建久9年(1198)、稲毛重成が橋を新造したとき、その供養に参列した頼朝が、帰路落馬したのです。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/j2JW0do82m
三谷幸喜氏の42年越しの希望が叶う「頼朝の死」。
三谷氏はこう書きたかったのか、人としての幕引きは美しかったな、と感じます。
三谷氏による頼朝の死因、および史料や推測からあげられている説は以下の通りです。
- 吾妻鏡の記述から、落馬して死んだというのが最有力説。
- 落馬の原因として、糖尿病による脳卒中がある。
- 落馬の後の療養中に誤嚥性肺炎を起こしたと考える人もいる。
- 義経や行家、安徳天皇の亡霊を見て落馬したとの説もある。
- 暗殺説も必ずしも否定できない。
- 大河ドラマ鎌倉殿の13人においては、糖尿病が原因となる落馬説を採用している。

原因は何にせよ、これからはわれらで支えてゆかねば。
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