鎌倉殿の13人で、佐藤浩市さん演じる上総広常。
頼朝のことを武衛(ブエイ)と呼んでいましたね。
力のある坂東武士であり、熱い男でちょっと横柄で傲慢な雰囲気がありつつも、こっそり字の手習いをしたり、魅力的な存在です。
しかし彼は「鎌倉殿の13人」に入っていません。
その運命やいかに。ドラマでの展開はどうなるかドキドキですが、史実をお伝えすると、ネタバレになるのかな?
鎌倉殿の13人!上総介広常とは何者?
/#吾妻鏡
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) March 27, 2022
寿永元年(1182)8月12日条
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政子の出産にあたり、貴人の出産や病気の際に邪気をはらうために蟇目(ひきめ)を射る引目役は、上総広常が務めました。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/yfRinfElUR
鎌倉殿の13人にて、存在感抜群の、佐藤浩市さん演じる上総広常。
現在の千葉県の上総・下総に所領を持ち、勢力を持っていました。
もともとの血筋は平家ですが、頼朝の父源義朝についていました。
1180年に頼朝が挙兵、しかし石橋山の戦いで敗れて安房(千葉県南部)に落ち延び、挙兵すると2万騎を率いて参加、頼朝が鎌倉殿になれたのも、上総介広常あってこそ。
ただ、人口が800万人くらいだったこのころに、武士だけでこの地域に2万は盛りすぎといわれてはいますが、彼が頼朝についたからこその歴史の展開だったことは間違いないでしょう。
ドラマ上では上総介広常は、選ぶ権利があって頼朝についた、そして頼朝の器量に感服したとされ、歴史書「吾妻鏡」にもそのように記されています。
ただ、上総介広常は平氏ではあるものの、源義朝についたことから平氏政権と対立し、追い詰められていたという状況も噓ではなさそうです。
各地で平氏政権に不満が高まったときに頼朝が挙兵し、広常ら坂東武士たちが呼応した、という必然に近い歴史の流れがそこにあったのでしょう。
頼朝殿にも坂東武士にもタイミングだったのだ
鎌倉殿の13人!上総介広常の運命は?
鎌倉殿の13人において、上総介広常は頼朝に反感を持つ御家人たちの話し合いに参加しています。
これからの展開が不安をかんじます。
上総介広常が頼朝についたからこそ、頼朝の勢力は安定するのですが、裏を返せば、彼の存在は鎌倉殿の地位を脅かすほどのものであったということです。
鎌倉殿の13人にもあるように、広常自身の性格もあったのか、傲岸不遜な態度も多々見受けられたようで、頼朝側に不安を与えることもあったようです。
そして、1183年、双六をしている時に梶原景時に殺されます。
もちろん、頼朝の意向を受けてのこと。
梶原景時が、上総介広常を殺害した後に太刀を洗ったとされる「梶原大刀洗水」が朝夷奈切通にあります。
私は反対したのだ!
鎌倉殿の13人!上総介広常は本当に裏切った?
様々な思惑渦巻く中、誅殺されてしまった上総介広常。
大きな軍事力を持ち、態度も不遜であり、鎌倉殿の13人では頼朝に反旗を翻したとみられるようですが。
本当の上総介広常はどうだったのでしょうか。
いえ、このあと、頼朝上総介広常が無実であったことを知るのです。
上総介広常は本拠地千葉県一宮町の玉前神社に願文を奉納していました。
その内容は「頼朝の祈願成就と東国泰平のため」。
上総介広常には謀反の心などなかったのです。
それを知った頼朝は深く後悔し、のちに後白河法皇に「東国をうち従えることができたのは上総介広常を味方につけたから」と語ったということです。
そうだ、だから言ったのに。
鎌倉殿の13人!上総介広常が呼んでいたブエイとは?
さて、上総介広常は頼朝のことを「ブエイ」と呼んでいます。
どのような意味でしょうか。
そもそも頼朝は「佐殿(すけどの)」と呼ばれていました。
これは頼朝が「右兵衛権佐(うひょうのえごんのすけ)」という官位についたことからです。
ただ、上総介広常はその呼び名が気に入らなかったよう。
ドラマの設定ではありますが、官位が上というのが気に入らなかったのかもしれません。
そんな広常に「武衛(ブエイ)」という呼び名を勧めたのは三浦義村です。
ブエイとは何か。武衛とは兵衛府の唐名です。内裏の守衛や行幸の警護をつかさどる仕事をするところ。
実は武衛とは、佐殿よりさらに敬う言い方であったのです。
なので、頼朝にとっては悪い気はしない、また、広常はその意味を知らず「中国で親しい人をよぶ言葉」といわれてそれを信じ、頼朝と対等になった気で、上機嫌で使っています。
そこが哀しくも見えるのです。
ブエイと聞くと胸が痛い。
鎌倉殿の13人!上総広常はどうなる?まとめ
佐藤浩市さん演じる上総介広常はとても魅力的で、あと少しの出番と知ると残念でなりません。
- 上総介広常は平氏だが頼朝の父源義朝に味方して、都の平氏政権とはうまくいっていなかった。
- 石橋山の戦いで負けた頼朝を鎌倉殿に押し上げたのは上総介広常の力が大きい。
- 不遜な態度や軍事力が不審を呼び、梶原景時に殺される。
- 実は無実であり、頼朝は深く後悔したという。
- 上総介広常が頼朝を呼んでいた「ブエイ」は「佐殿」をさらに敬う言い方だが、本人は「仲間」という意味だと思って使っていた。
上総介広常殿のこと、忘れないぞ。
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