鎌倉殿の13人、毎回見逃せませんが、後半において北条義時最大の敵といえるのが、尾上松也さん演じる、「後鳥羽上皇」です。
鎌倉時代最大の出来事ともいえる、「承久の乱」の首謀者です。まさにラスボス!
どんな方だったのか、見ていきましょう。
鎌倉殿の13人!後鳥羽上皇とはどんな人?
後鳥羽上皇、と出ていますが上皇とは天皇の位を譲った方、正しくは「太上天皇」です。
令和の今も上皇陛下がいらっしゃるので、馴染みがありますが、この時代は天皇になったら、自分が影響を与えられる相手に天皇位を譲って、上皇となった方が権力を奮えるため、早めに譲位する傾向がありました。
もちろんそうなると上皇が増えて、上皇同士の争いも起きたりします。
ちなみに法皇とは出家した上皇のことを言います。
f\第五次出演者発表/#後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) February 17, 2022
後白河の孫で、文武に秀でた偉大なる帝王。その誇りが義時に牙をむく#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/S60jt0VWvp
後鳥羽上皇の生い立ちから天皇になるまで
後鳥羽上皇は後白河法皇(西田敏行さん)の孫にあたります。
高倉天皇の子どもであり、壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇の異母弟に当たります。
木曾義仲(青木崇高さん)に京を占領され、平氏と安徳天皇は、三種の神器とともに都を逃れていきます。
これにより、京都に天皇がいない状態に陥り、後白河法皇は神器のないまま、後鳥羽天皇を即位させることに決めます。
日本史上において、天皇がふたり並び立つというのは南北朝時代を待たずして、すでにこの鎌倉初期に行われていたのです。
そののち安徳天皇は亡くなりましたが、2年間天皇は二人在位していたことになりました。
4歳で即位、後白河法皇が院政を敷いていましたが、後鳥羽天皇が13歳の時に亡くなります。
後鳥羽天皇としての大きな仕事は、源頼朝を征夷大将軍に任命したことです。
源頼朝は長女の大姫を後鳥羽天皇に入内させて天皇家と繋がりを持とうと画策しますが、大姫は病死し、頼朝も亡くなって成就しませんでした。
後鳥羽天皇は19歳という若さで譲位、後鳥羽上皇となります。
そののち23年間にわたって院政を敷き、朝廷の実力者となるのです。
鎌倉幕府を開けたのはこの方のおかげもあるな。
後鳥羽上皇は文武両道だった
後鳥羽上皇はそれまでの朝廷・公家のイメージを覆す、生命力あふれる魅力的な人物でした。
貴族はやらない武術の訓練をし、相撲や水練、水泳も得意。
盗賊をとらえるために出て行ったというし、常に自分を高めるために行動していた方でした。
それだけではない。芸事もこなす。琵琶も弾けるし蹴鞠も上手、和歌も詠む。
藤原定家らに命じて、「新古今和歌集」の編纂をしています。
それも編纂は任せきりではなく、実質的な選者として深くかかわっていました。
完全無欠なお方だな。
鎌倉殿の13人!後鳥羽上皇が起こした承久の乱とは?
朝廷にて絶大な権力を持っていた後鳥羽上皇、優秀すぎて幕府と並び立つことができなかったのかもしれません。
後鳥羽上皇が起こしたのが、日本の歴史の分岐点ともいわれる「承久の乱」です。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時を倒そうとし、しかし武力で鎌倉に負けた事件です。
承久の乱が起きた原因は?
自らも優秀であり、朝廷が日本を支配するべきだと思っていた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の存在を快くは思っていませんでした。
そこで、様々な策を弄します。
まず、三代将軍実朝に近づきます。
実朝は都の文化にあこがれを持ち、和歌が得意で「金槐和歌集」を作り上げています。
後鳥羽上皇とは気が合ったようで後鳥羽上皇の娘を娶り、右大臣という官位を受け取っています。
一方、領地や軍事力の拡大をもくろみ、荘園の寄進を積極的に受け、北面の武士に加えて西面の武士も創設し、朝廷の軍備を増強します。
朝廷や貴族の経済的基盤である荘園に関しても、幕府が地頭の設置を始めてから新たな寄進はなくなり、租税収入も地頭に持っていかれてしまって減少していきます。
経済的なダメージは、朝廷の幕府への心証を悪くしていきます。
そのような折に鎌倉幕府では2代将軍頼家、3代将軍実朝が相次いで殺され、動揺が起こります。
ここで後鳥羽上皇は幕府打倒を決意し、「北条義時追討の院宣」を発して、全国の武士たちに鎌倉に弓を引くように声を上げるのです。
そして命令を拒否した守護の伊賀光季を討ち取り、士気は上がるのでした。
とうとう分かり合えることができなかった。
承久の乱の結果はどうなる?
結果は、幕府軍の圧倒的勝利でした。
上皇の策略は一足早く、鎌倉に漏れていたのでした。
これは上皇に討たれた京都守護伊賀光季から、とも言われますが、幕府を裏切って上皇側についたと見せかけた三浦義村の裏切りとも言われています。
義村の弟胤義は上皇側として戦っています。
義村は弟をも利用したのかもしれません。
上皇からの院宣が届く数日前に情報が手に入ったことにより、幕府側は対策を練ることができたのです。
まさに、情報を制するもの勝敗を決す、です。
朝廷に弓引くことは朝敵になること、畏れ多いとためらう御家人たちも少なくない中、有名な北条政子の大演説により、鎌倉方は一致団結したのです。
政子は武士の世を作り上げた頼朝への恩を返すべき、敵は上皇ではなく幕府にたてつく武士であると力強く語ったのです。
各地で増大する幕府軍に朝廷はなすすべもなく、一日で勝敗は決定しました。
姉上の演説、見事であった。
承久の乱の後の後鳥羽上皇の最期は?
幕府をつぶそうとした後鳥羽上皇らですが、やんごとなき方々であるため、死罪にすることはできず、流罪になります。
後鳥羽上皇は隠岐の島へ、関わった順徳上皇は佐渡島へ、計画に反対していた土御門上皇も自ら望んで土佐に流されます。
そして、後鳥羽上皇が所有していた3000ともいわれる広大な荘園も没収され、幕府のものとなるのでした。
幕府は京都に「六波羅探題」を設置し、西国への支配を広げることになります。
まさに武士が朝廷を凌駕する歴史の転換点となったのです。
後鳥羽上皇はそのまま隠岐でくらし、60歳で亡くなりました。
承久の「乱」と名付けられたこの内乱、上皇側が悪なのか、鎌倉方が悪なのか、時代によって解釈も異なっています。
誇り高き血筋の持ち主で優れた能力を持つ後鳥羽上皇、現れる時期が違えば歴史は大きく変わっていたのでしょう。
上皇ほどのお方、惜しいことであった。
鎌倉殿の13人!後鳥羽上皇ってどんな人?北条義時最大手の敵まとめ
頼朝が亡くなり、御家人たちの勢力争いも絶えることがない、そして将軍が次々亡くなる、そんなときに起こった承久の乱、北条義時にとってまさにラスボス、後鳥羽上皇とは大変優れた人だったようです。
- 後鳥羽上皇は後白河法皇の孫、安徳天皇と在位が2年間被っていた。
- 源頼朝を征夷大将軍に任命した。
- 文武両道で古今和歌集も編纂、23年にわたって院政を開く。
- 3代将軍実朝とは昵懇の間柄だった。
- 経済基盤が脅かされるなど幕府を敵視していた。
- 実朝暗殺ののちの幕府の混乱を見て北条義時追討の院宣を出す。
- 予想に反して一日で幕府軍に負け、隠岐の島に、流されて生涯を終える。
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