歴史を変える権力者は非情であらねばならない。
鎌倉殿の13人の頼朝を見て、そう感じる方少なくないのではないでしょうか。
そして、史実にある通り、弟の義経にも悲劇的な最期が待っています。
なぜそうなってしまったのでしょうか。
鎌倉殿の13人!頼朝と義経の関係は?
頼朝と義経は腹違いの兄弟です。
頼朝は三男ですが、母の地位が高かったため、嫡男です。
上の兄二人は、父源義朝と同じ時期に亡くなっています。
義経の母は都一の美女と言われた常盤御前。
平清盛の愛妾にされ、その後公家と再婚したと言われています。
義経は鞍馬寺に預けられるものの、逃げ出して奥州藤原氏のもとに向かいます。
そして、頼朝が挙兵した時に駆け付けるわけです。
すごい兄弟だなあ。
鎌倉殿の13人!義経の功績は?
頼朝が鎌倉殿として征夷大将軍になり、幕府を開けるのは義経の軍功あってこそです。
頼朝の従兄弟、源義仲がまず京に入り、平氏を追い出します。
ドラマでは義仲は頼朝と手を取り合って平氏を倒し、源氏の政権を作ろうと呼びかけていましたが、
頼朝は自分を阻むものとして義仲追討を決意、後白河法皇からも院宣を得ます。
そして、義仲を倒すのに義経の軍才が花開くことになります。
さらに、平氏との戦いが始まり、頼朝の弟範頼と義経をリーダーとして頼朝は軍をすすめます。
頼朝自身は政権を盤石にするため、鎌倉に残ります。
神戸の一ノ谷ではまさかここからというところからの奇襲~史実では鵯越ですが、ドラマではさらに険しい鉢伏山からの奇襲とされていました~で、平氏を破ります。
次に屋島の戦いでも恐るべき素早さで現地に向かい、平氏を打ち破ります。
第16回「伝説の幕開け」をご覧いただきありがとうございました。
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) April 24, 2022
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※配信期限 : 5/1(日) 午後8:44 まで
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まさに八幡大菩薩!
鎌倉殿の13人!義経が頼朝を怒らせた原因は?
鎌倉殿の13人での義経の人物像は今までと違った書かれ方をしています。
しかし、もしかしたら三谷義経こそが史実に近いのかもしれません。
義経は軍事の天才、勝つためには手段を選びません。
この頃の常識であった名乗りを上げて一騎打ちなどしないし、禁じ手である船の漕ぎ手を射ることもする。
そして、徐々に頼朝と義経の間の溝は深まっていくのです。
壇ノ浦の戦いでの話
壇ノ浦の戦いで、義経はとうとう平氏を滅ぼしますが、ここでの振る舞いがひとつめの原因とされます。
まず、安徳天皇を死なせてしまったこと。
朝廷を重んじる時世にあって、幼い天皇を失うことまでは頼朝は望んではいなかったとされています。
次に、三種の神器を失ったこと。
三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)は安徳天皇もろとも入水し、そのうち勾玉と鏡は無事でしたが、剣は紛失しました。
また、頼朝そのもののようにふるまい、御家人たちを自分の家臣扱いして反感を買ったということ。
これまでの歴史ドラマでの義経はそのようには描かれていませんでしたが、今回はそう言われている通りの義経像であるようですね。
そして、梶原景時と対立したこと。
梶原景時が壇之浦の戦いののちに義経について書き送った書状が、頼朝の不信を招いたのです。
鎌倉殿の13人では、しかし梶原景時は誰よりも義経を理解していたと思われる設定になっています。
二人の関係はあたかもモーツァルトとサリエリのようだと評する人もいてなるほどと思われます。
梶原景時は義経の能力を正しく見極めるとともに、頼朝と並び立つことは有り得ないと悟っていたようです。
梶原殿のお目は確かだが、しかし…。
後白河法皇から勝手に官位を授けられた
それでも壇ノ浦の戦いでは、義経の軍功は明らかでした。
このあと、後白河法皇の策略にはめられたことが、義経が悲劇の最期を迎える直接の原因となったのです。
京に戻った義経は後白河法皇に絶賛されますが、義経ひとりが褒めたたえられることに、御家人たちは不満を持ちます。
頼朝は義経を呼び戻そうとしたものの、後白河法皇から検非違使に任ぜられていた義経にはそれができません。
義経は頼朝の許可なく後白河法皇から官位を授かっていたのです。
もっともそれは法皇のたくらみであったのですが。
頼朝は官位を授けることはできません。
その頼朝の頭越しに官位を受け取ることは、頼朝の地位を脅かすことになるのです。
そして義経は頼朝と法皇の板挟みとなり、身動きが取れなくなります。
やがて叔父の源行家が絡み始め、とうとう二人は戦うことになり、勝ち目のない義経は、奥州藤原氏を頼って落ち延びていくのです。
歌舞伎で有名な勧進帳は義経が都落ちして逃れるところを、ドラマ仕立てにしたのです。
なんとかできればよかったのだが。
鎌倉殿の13人!義経の最期はどうなる?
奥州藤原氏を頼って落ち延びた義経を、藤原秀衡は受け入れます。
頼朝にとって奥州藤原氏はいまや最大の障壁となっていました。
秀衡は戦の天才義経を匿うことで奥州藤原氏が生き延びる策を考えていたのかもしれません。
しかし、秀衡はまもなく亡くなり、残された兄弟の間で義経の処遇をめぐって考えの違いが明確になります。
そして、頼朝の策略もあって、秀衡の後を継いだ泰衡は、義経を攻め、義経は亡くなります。
弁慶が立ったまま死んでいく、という逸話でも有名です。
そして、義経を討ち取ったことで奥州の安定を図ったつもりの泰衡でしたが、頼朝に攻められて滅ぼされる運命にあるのです。
辛いが、これもさだめやもしれぬ。
鎌倉殿の13人!頼朝と義経の仲たがいの原因は?まとめ
軍事の天才義経は、平氏を滅ぼしたときに役目は終わっていたのかもしれません。
それでも、この兄弟があってこそ、武士の政権が確立されたのです。
- 源頼朝と義経は腹違いの兄弟で、義経は奥州藤原氏の下で育った。
- 頼朝は鎌倉で政権を安定させ、義経は平氏を破る軍功で武士政権を打ち立てた。
- 壇ノ浦の戦いでの義経の振る舞いが頼朝に不信を起こさせた。
- 後白河法皇から義経が官位を勝手に授かったことが頼朝の不興を買った。
- 義経は奥州藤原氏のもとに逃げるものの、藤原泰衡に討ち取られた。
- 義経を討った藤原氏も頼朝に攻め滅ぼされた。
こうして武士の世が出来上がっていくのだ。あとは北条に…。
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