焼夷弾、その実態をご存知ですか?




太平洋戦争終結80年め。
年齢を重ねた戦争体験者の方々が
重い口を開いてくれています。

その中で、聞いたことない、という方は
少ないのではないでしょうか。
「空襲で焼夷弾が降ってきて
町は火の海になって…」

焼夷弾、というものが
たくさんたくさん落とされて
町が焼かれ多くの人々が
亡くなった。

「火垂るの墓」をはじめ、
多くの作品にも描かれています。

それを知っていても、
そもそも「焼夷弾」て何?
ミサイルとは違うの?

ご両親やその上の世代の方の口からも
聞いたことあるかもしれません。
彼らの中では
「焼夷弾」は説明しなくても
知っているものという前提で
あるようなのですが。

焼夷弾とミサイルは違います。

ミサイルは「誘導弾」、
自ら持つ推進装置で
目標に向かって飛んでゆき、
弾頭で破壊することを
目的とするもの。

「焼夷弾」は、推進装置は持たず、
落とされて落ちてから
対象物を焼き払う「燃焼弾」なのです。

焼夷弾は細長い板状の形をしていて、
底に火薬があり、中身のほとんどは
ゼリー状のナパーム油です。
油を詰めた爆弾です。

それは、木と紙でできた
日本の木造住宅を焼き払うために
開発されたものなのです。

東京大空襲で使われたものは、
焼夷弾を19発ずつ2列、
計38発をひとつにまとめたもの。
B29機から落とされると
空中ではじけてバラバラになり、
地上に降ってくるという 
クラスター爆弾です。

狙いは、落下の勢いで屋根を破り、
天井裏で横倒しになって
着火し、火を噴くこと。

ねっとりとした石油を撒いて、
そこに火をつける、
そういう構造なのです。

ゼリー状の油は粘着性が高く、
壁や床に付くと取れず、
「消せない火災」を引き起こすのです。

映画などでは
焼夷弾そのものが燃えながら
落ちてきて「火の雨」のように
描かれていますが、
落ちるまで着火することはなく、
焼夷弾に付いていたリボン状の紐に
落下の際に火がついた、
いや、地上の火が映ってそう見えただけ、
などと言われています。

落ちるまで着火しない。
それは別の恐ろしさを意味します。
焼夷弾は長さ約50㌢、
重さは2.7kg。
そんな物体が空から雨あられのように
降ってくるのです。

焼夷弾そのものが身体に刺さり、
亡くなったひとも無数にいるのです。

アメリカ軍は1942年に最初の
日本本土空襲を行っており、
焼夷弾が刺さって亡くなった
早稲田の中学生もいます。

1943年10月の時点ではすでに
日本の20都市の空襲を計画し、
着々と準備を進めていたのです。

「日本の家屋は火災に弱い」
彼らは江戸の大火まで調べ上げ、
入念に準備をしていました。

砂漠に畳やちゃぶ台まで備えた
日本家屋を忠実に再現し、
効果的に町を焼けるように
演習を重ねるのです。

そして、1945年3月10日の東京大空襲。
落とされたのは、1665トンの焼夷弾。

木造家屋の密集地、すなわち
下町地域に大量に落とし、
家々を焼き尽くします。

折しも強風が吹いていて、
あっという間に延焼して大火災に。

避難所も火に包まれて
逃げることもかなわず、
空襲警報よりも早い攻撃、
川にたどり着くことすらできない。

さらに被害者を増やしたのは、
政府の行動とマスコミの報道です。

数日前に起きた北九州での
空襲について
「焼夷弾を素手で握って放り出した」
「焼夷弾を地下足袋で踏み消した」
「焼夷弾で燃えた家はなかった」
というような報道を大々的に
行ったのです。

3000度で燃える
ガソリンのような油を
素手で掴めるでしょうか。
地下足袋で踏んで消えるでしょうか。

政府が恐れたのは、
国民が恐怖に陥り、
戦争に疑問を持ち、
戦意を失うこと。

なので、焼夷弾で燃えさかる中、
「逃げてはいけない」 
「逃げるな、立ち向かえ」
「消火をしろ」

消えない火災を起こすために
研究され尽くしたアメリカ軍に
落とされた爆弾の中、
バケツリレーなどの
非科学的な消火活動に手を取られ、
逃げ遅れ、亡くなったひとが
どれほどいたのでしょうか。

それでも、東京大空襲の翌日
「大丈夫だ、怖くない、
そして死を恐れるな」との
姿勢を改めて打ち出しているのです。

米軍が撒いた「空襲予告チラシ」を
持つことは許されませんでした。
持っていることが判明すると
懲役に処す、としたのです。

これからこんな空襲が行われると
知れば、国民は恐怖から
戦争反対の姿勢に向かうのでは
ないか。

実際はチラシの通りに空襲が行われ、
あらかじめ知っていれば
どれだけの人々が
逃げることができたのでしょうか。

とはいえ、家を失い、
家族を亡くした人々は
それから疎開を進め、逃げることを
優先するようになったため、
その後も繰り返し行われ、
規模も大きくなっていったにも
関わらず、空襲での
死者は少なくなっていきました。

3月10日に亡くなった人は
94800人とされ、
身元が判明したのは8000人。
まずはそのまま埋葬され、
後に掘り起こされて火葬されますが、
今でも80000人の方々が
そのまま眠っているのです。

3月10日以降の空襲は、
大規模なものだけでも
名古屋、大阪、神戸、呉、
郡山、川崎、呉、横浜、日立、
鹿児島、浜松、福岡、静岡、
呉、佐世保、岡山、熊本、呉、
高松、徳島、千葉、甲府、
和歌山、堺、仙台、宇都宮、
釜石、青森、室蘭、日立、
福井、銚子、大分、松山、
徳山、一宮、青森、長岡、
富山、前橋、高崎、豊川、八幡、
釜石、岩国、熊谷、伊勢崎、
秋田…。

東京地区内では
3月10日以降大規模なものだけでも
10回以上行われ、

小規模なものをいれると
多摩地区だけでも40回ほど
行われていますし、
小笠原諸島だけでも
30回以上行われています。

全国でどのくらいの空襲が
行われたのか。

空襲での死者は、NHKの独自調べで
453564人。
「分かっているだけ」です。

ただそこに暮らしていただけなのに、
大切な人々と一緒に
つましい木造家屋に住み、
黙々と働いて
日々を過ごしていただけなのに。

家を焼かれ、職場を焼かれ、
学校を焼かれ、家族を焼かれる。

そんなことになったのは、
なぜなのでしょう。

空から落ちる燃える爆弾、
身体を貫く重い板、
幼い頃にそれを体験した方々は
どんな思いで80年間を
過ごしてきたのでしょう。

誰かを排除し、非難するより前に
考えなければならないことが、
きっと、あるはず。

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