夏が長くなり、暑いのは大変です。ただ、「火」の熱さを心配する季節が
遠ざかっているのは確かで、
なんでもいいこと悪いことがあります。
夏になると、
季節風の向きが北西から南東に変わり、
太平洋の湿って暑ーい空気が
やってくるため、
火事は起きにくいのですね。
さて、ご存じの通り
江戸時代は火事が多かったのです。
大河ドラマ「べらぼう」の冒頭でも
火事が起きていましたね。
あれは江戸三大大火のひとつ、
「明和の大火」別名「行人坂の火事」です。
目黒駅から目黒雅叙園に
向かうあの坂が行人坂です。
そういえば、雅叙園どうなっちゃうんでしょう、
トイレのファンなのですが。
行人坂の火事では
大名屋敷は169、寺院は382も
焼けてしまったそうで、
町の風景も変わってしまったことでしょう…。
江戸の火消しといえば、
いなせだね、め組!の町火消のイメージですが、
彼らだけではありません。
最初に組織されたのは
「大名火消し」で、江戸初期の火災のあと
6万石以下の比較的小規模の
大名16家により組織されています。
その後、幕府の直轄組織として
「定火消」、こちらは幕臣の旗本中心で
一番部屋二番部屋三番部屋
各100名ずつが充てられました。
10人ずつ宿直だったようですが、
火事がないときは博打ばかり
していたようで、
ただの博打部屋だったといううわさも。
それから8代吉宗公の時代に
あの、大岡越前が町火消を
組織してくれます。
鳶職がメインとなって
いろは48組。
ただ、「へ」組「ひ」組「ら」組は
使われず、
め組は百組千組万組本組と
あったそう。
粋な半纏をまとい、
火事の後は裏返し、
そこに、ドクロやら役者やら
裏面がまたカッコよい
火消しのお兄さんたちですが、
当時は水で消火するわけではなく、
延焼防止の家屋破壊がお仕事です。
町を壊しても代替地は
しっかり用意されていたそうで。
ただ、お悩みなのは、
火事を発見しても最初に
半纏を鳴らせるのは「定火消」。
大名火消しといえども、
彼らより先に火事だあ、って
いえなかったのですね。
それは「幕府のメンツ」に関わるから
だったそうで、なんとも。
定火消の方々が博打に夢中になっていて
火事に気付かず、遅れたら大変…。
ですが、博打が原因かどうかは
とにかく、江戸町民に知らせが
行くのが遅くなった事例は
いくつもあるという話。
火災が多かった江戸の町では
助け合いも積極的に行なわれていて、
そもそもの防災意識も高かったし、
被災した人々には
火事見舞いと称して
必要な金品が届けられています。
家も明暦の大火で
落ちてきた瓦で亡くなった人が
多かったことから
瓦屋根は禁止され、
土蔵に牡蠣殻などが使われたよう。
中期に落ちにくい近江瓦が
開発されて、それから
変わっていったのです。
江戸の三大大火といえば、
娘の振袖が火元といわれる
振袖火事、江戸城まで焼いてしまった
明暦の大火に
上述の明和の大火、
そして文化の大火、
延焼すると数千数万の死者が
出てしまっていますね。
と、江戸ばかり注目されて
しまいますが、
江戸と並ぶ大都市大阪でも
火災は多発しています。
とりわけ江戸時代初期は
徳川に反目する豊臣の残党による
付け火(放火、よりリアル感ある)が
多く、
幕府は手を焼いたようです。
商人の町大阪では、
消火活動は町人の「義務」とされ、
「雨」「波」「滝」「川」「井」の
五印の組が組織されています。
これはやはり延焼防止の
破壊工作をする「鳶人足」と
もうひとつ、「水の手人足」で組織されています。
大阪は江戸より一歩進んで
水による消火活動も盛り込まれて
いたのです。
井戸の位置と用水桶の場所は
みなに周知され、
火災の折にはできる限り
協力しあったようです。
家屋の防火も江戸より進んでいたようで、
壁に漆喰を塗ったり
隣家との境に防災用の壁を
設置しています。
大阪も何度も大火に襲われ、
市中の3分の2が焼けた
妙知焼け、
大塩平八郎の乱による大塩焼け、
船橋や上町が焼けた新町焼けを
始め、
遊女おちょぼの付け火による
おちょぼ焼けや道頓堀の大火など
いくつもの災害を
乗り越えてきています。
人が集まって住む都市は
活気もあって
産業も文化も発展しますが、
密集地帯での災害は
いつの世でも恐ろしいものです。
それでも、
江戸時代の人々は
「火事は起こるもの、
しかし起こる前や起こった後に
どうするかは自分たちで
やれることがある」と
わかっていて、防火をし、
火事の後も立ち直ってきたのです。
火事が少ないこれからの季節は、
防火について考えられる
よい時期であるのかもしれません。
【江戸時代、江戸の火事、大阪の火事事情をみてみましょう】
こんなことあんなこと


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